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「光陰は百代(ひゃくだい)過客(かきゃく)なり」と李白(りはく)がいう通り、年月は旅する者のように過ぎ去って行く。舟に乗り水面(みなも)に浮かんで生涯を送る船頭や、馬の(くつわ)を引きながら老いていく馬子(まご)たちも、毎日を旅に費やして旅の中に暮らしている。昔の文人墨客も旅路で命を落とした者が多くいた。

 私も何時の年からか、風に流れる雲を見ては、旅への想いを募らせ、海辺を流離(さすら)い、去年の秋には深川(ふかがわ)(東京都江東区)の草庵に戻り、蜘蛛(くも)の巣を払って住んでみたりはしたが、やがて年も暮れ、春霞が立つ空に「白河(しらかわ)の関を越えようか」と思うと、惑わす神が取り()いたかのように心落ち着かず、道々の神が招いているかに思えて取るものも手につかない。股引(ももひき)(やぶ)れを(つくろ)い、道中笠の(ひも)を付け直して、足三里(あしさんり)のツボにお灸を据えれば、松島に掛かる月の光景が早くも心に浮かんで、住んでいた草庵を人に譲り、門人の杉山杉風(さんぷう)の別宅に移って

  草の戸も(すみ)替る()(ひな)の家

(こんな草庵でも住む人が替わり世も代われば、三月には雛飾りを愛でるような親子の家になることだろう)

続く連韻の(おもて)八句を草庵の柱に掛けて残した。

 

三月二十七日、(あけぼの)の空は(おぼろ)に霞み、有明の月は白みかけ、遠く富士山が(かす)かに見えて「上野や谷中(やなか)で見た桜の花も、次は何時見られることか」と心が弱る。親しい者ばかりが昨夜から集まり、舟に乗って送ってくれる。千住(せんじゅ)(東京都足立区)という所で舟から上がると「これから前途三千里の長旅だ」との思いに胸がいっぱいになり、夢幻(ゆめまぼろし)であるはずの世間と離れることにさえ涙が流れる。

  (ゆく)春や鳥(なき)魚の目は(なみだ)

(行く春とともに旅立つことに、鳥も鳴き騒ぎ、魚も目に涙を浮かべて、一緒に別れを悲しんでくれているのだね)

 

【千住】を出立する場面。右方に見送る五人、少し間を空けて左方に芭蕉と曽良との二人。見送りの五人はそれぞれにポーズを取り、何やらタガが外れたかのような哀感が漂う。一人が片手を差し上げて遠離(とおざか)る芭蕉たちを指差す仕種(しぐさ)を見せ、左右の人々を関係づける。人物は細やかに描かれ、左端の芭蕉には超然とした表情までもが読み取れる。芭蕉は杖を左方に傾け、右足に重心を載せて前傾姿勢となり、歩を進めている様子を表す。

 

矢立(やたて)の筆を執ってこれを旅の始めの句に書き留めたものの、何だか歩みが(はかど)らない。知己の人たちは道端に立ち並んで「後ろ姿が見えなくなるまでは」と見送っているはずだ。

 

今年は元禄二年(一六八九)だ。「奥羽への長旅に出よう」とふと思い立って、遠い国へ旅した苦難で白髪になってしまったという故事のように、苦労を重ねるかも知れないが「耳に聞いてはいても未だ見たことの無い土地を訪ねて、そして幸い生きて帰って来られるならば」と宛ての無い望みを掛けて、この日は(ようや)草加(そうか)の宿場(埼玉県草加市)に辿(たど)り着いた。痩せた肩に掛けた旅の荷物が早くも苦になる。ただ身軽にと出で立ったのだが、紙衣(かみこ)一着は夜の寒さを防ぐため、浴衣や雨具や墨と筆、そして有難く貰った餞別の品々は、さすがに捨てる訳にもいかず、道中の荷物となるのはどうにも困ったことだ。

 

歌枕に知られる〈(むろ)の八島(栃木県栃木市、大神神社)〉に詣でる。同行する曽良がいうには「この神は木花之佐久夜毘売(このはなのさくやひめ)といわれ、富士山の浅間大神(あさまのおおかみ)と同一神です。(女神は戸口を(ふさ)いだ産室)『無戸室(うつむろ)』に入り、建物を焼かれながらも貞操を誓う中に、彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)がお生まれになったことから『室の八島』と呼ばれます。またこの歌枕に『煙』を詠み込む習わしがあるのもその(いわ)れからです。それから、(このしろ)という魚を焼いて食べるのを禁ずる縁起話も世に伝わっています」

 

三月三十日、日光山(日光市東照宮)の(ふもと)に泊まる。宿の主人がいうには「私は名を『仏五左衛門』と申します。何事も正直にと勉めておりますので、世間でこのようにいわれる通り、今夜のご宿泊も寛いでお休みください」という。「一体どんな仏様がこの俗悪な世に現れて、我等のような取るに足らない旅の者を助けてくれるというのだ」と気になり、主人の様子を目に留めていると、実際ただ愚直にも正直一途(いちず)な人物だった。全く『論語』にいう「剛毅木訥(ごうきぼくとつ)、仁に近し」の通りで、生まれつきの清廉さこそ何より尊ぶべきだ。

 

四月一日、日光の御山(男体山(なんたいさん)二荒山(ふたらさん)神社)に詣でる。その昔はこの御山を「二荒山」と称したのを、弘法大師空海がここに寺を開いた際に「日光」と改められた。大師は千年先ともなるこの未来を予見されたのだろうか。今当に、東照大権現の威光は天下を照らし、恩恵は国の隅々に行き渡り、士農工商の民は穏やかに暮らしている。これ以上は(はばか)りも多く、ここで筆を留め置いた。

  あらとうと青葉若葉の日の光

(ああ思えば何と尊いことだ。青葉・若葉の全てを、日の光が隈無く照らして輝かせているではないか)

 

黒髪山(くろかみやま)(日光市男体山)〉には霞が懸かり、雪が未だ白く残る。

  (そり)すててくろかみ山に更衣(ころもがえ) 曽良

(髪を剃り墨染衣(すみぞめごろも)をまとい出家の身となって旅立ったが、今また黒髪山で衣替えの時を向かえ、この先へ思いが改まる)

曽良は、姓は河合で名は惣五郎(そうごろう)といった。深川芭蕉庵の近くに住んで、私の日常家事の(わずら)いを助けてくれた。今回、松島や象潟(きさがた)の眺望を共にできると喜び、また旅の辛苦を(いたわ)りたいと、旅立ちの朝に髪を剃り、墨染衣に身なりを替えて、惣五の名も僧侶風に宗悟(そうご)と改めた。これによって「くろかみ山」の句ができたので「更衣」の二文字に旅の決意への重みが感じられる。

 

二十(ちょう)(二キロ)ほど山を登ると滝がある。(くぼ)んだ岩壁の天辺(てっぺん)から流れ出て百尺(三十メートル)岩だらけの真っ青な滝壺に落ち入る。岩窟に身を(かが)めて入り、滝を裏側から見られるので「裏見(うらみ)の滝」と呼び習わしているのだ。

  しばらくは滝にこもるや()(はじめ)

(少しの間、滝裏の岩屋に入っていると、夏籠もりの修行を始めたかのような、爽やかで穏やかな心持ちになるよ)

 

那須(なす)黒羽(くろばね)(大田原市)という所に知り合いがいるので、これから〈那須野〉の原野を横切って近道しようとする。遙か向こうに見える村を目指して行くと、雨が降り出し日も暮れた。農家に一晩宿を借りて、翌朝また野原の中を進む。そこに野に連れ出された馬がいた。草を刈る男に困っている次第を伝えると、田舎者ではあるがさすがに人情を知らない訳でもなく「どうしたもんかね。だけどこの野原は道があちこちに分かれて、初めて旅する人は道を間違う恐れがあるんで、乗ったこの馬が止まった所で馬を返してくださいな」と貸してくれた。子どもたちが二人、馬の後を追って走ってくる。一人は女の子で、名を「かさね」という。珍しい名前の優しい響きに

  かさねとは八重(やえ)なでしこの名なるべし 曽良

(「かさね」とは、可憐な八重撫子の花を想い浮かべて付けた名前に違いない。可愛い彼女にピッタリだ)

やがて人里に(いた)ったので、御礼のお金を(くら)の半ばに結わえ付けて、馬を返した。

 

【那須野】の場面。左方に農夫から借りた馬に乗って野原を渡っていく芭蕉。馬の足取りは軽快に、馬上の芭蕉も御満悦の表情だ。一方、後ろの曽良は独り荷物を多く(かつ)がされ、重たくて難儀な様子。右方では小さな子どもたちが愛らしい。男の子が右手に持つのは馬の(むち)か、芭蕉の方に差し上げて追い掛けていることを示す。男の子が女の子の手をシッカリと引いて頼もしい。「かさね」のライラック色の着物が風に(なび)いて、何とも可憐。

 

黒羽藩の城代家老、浄坊寺(じょうぼうじ)氏(浄法寺(じょうほうじ)高勝(たかかつ)桃雪(とうせつ))の(やかた)を訪れる。主人は思いがけない再会を喜び、昼も夜も様々に語り合い、その弟の桃翠(とうすい)豊明(とよあき)、※翠桃(すいとう))も朝に夕に通い来て、また自分の家に連れて行ったり、親戚の家にも招かれたりして、何日かを過ごすままに、ある日のこと周辺に足を伸ばして「犬追物(いぬおうもの)」が行われた場所を見物し、歌枕の〈那須の篠原(しのはら)〉に分け入り「玉藻前(たまものまえ)」の塚(大田原市、狐塚之址碑)を訪ねる。それから八幡宮(那須神社)に詣でた。「那須与市(なすのよいち)が扇の的を射た時に『取り分け我が郷、那須の氏神正八幡神よ』と祈ったのもこの神社です」と聞くと、霊験が一層確かに感じられた。日が暮れたので、桃翠の家に帰った。

 

修験光明寺(廃寺)という寺がある。そこに招かれ、開祖の役小角(えんのおづぬ)を祀る行者堂を拝観する。

  夏山に足駄(あしだ)を拝む首途(かどで)かな

(新緑の山中で、役行者の一本歯の高下駄を拝んで元気が湧いたから、これを遠く旅立つ新たな門出としよう)

 

下野国(しもつけのくに)の雲岸寺(大田原市、※雲巌寺)奥まった所に、私の禅の師匠、仏頂(ぶっちょう)和尚が山中で修行した地がある。

  (たて)横の五尺にたらぬ草の庵 むすぶもくやし雨なかりせば

(一・五メートル四方に満たない小さな庵に、居らなければならないのは不自由なことだ。雨さえ降らなければ)

と「松明(たいまつ)の炭で岩に書き付けました」と、いつか話しておられた。「その跡を見てみよう」と、杖を手に雲岸寺に向かうと、土地の人々も互いに誘い合い、若者が多く道中も賑やかに騒いで、思ったより早く寺の下に着いた。山内は奥深い様子で、谷沿いの参道は遥かに続いて、松や杉の林は苔生(こけむ)して湿り、四月というのにひんやりしている。境内の景物を見尽くし、橋を渡って山門を(くぐ)る。

「さあ修行された場所はどの辺だろうか」と、裏山によじ登ってみると、岩上に小さな庵が岩窟に寄せて造ってある。中国の高峰原妙(こうほうげんみょう)禅師の「死関(しかん)」や法雲法師の石室の様子を目の当たりにするようだ。

  木つつきも庵はやぶらず夏木立

(キツツキにも敬う思いがあるのか、この庵を突き壊すことなく守ってくれて、夏の木陰の安らかさは往時のままだ)

と、その場で詠んだ一句を柱に残しておいた。

 

黒羽から殺生石(さっしょうせき)(那須町)へ向かう。城代家老が馬を出して送ってくれた。馬を引く男が「一句短冊に書いておくれ」と乞う。風雅なことを望まれるものだ、と

  野を横に馬ひきむけよほととぎす

(野原の横手へ馬を引き向けておくれ。ホトトギスがしきりに鳴いて呼んでいるみたいだから、そちらへ行ってみよう)

殺生石は温泉が湧き出る山懐(やまふところ)にある。石が放つ毒気は未だに衰えず、蜂や蝶などが地面を覆い尽くすほど重なり合って死んでいる。

 

また西行(さいぎょう)が「道の()清水流るる柳陰(やなぎかげ)しばしとてこそ立ちどまりつれ」と詠んだ柳は、芦野(あしの)の里(那須町)にあって田圃(たんぼ)畦道(あぜみち)に残っている。ここの領主である戸部(こほう)氏(芦野資俊(すけとし)桃酔(とうすい))が「この柳を一度はご覧に入れたい」と、折りにつけていっておられたことから、どんな所だろうと思っていたが、今日やっとこの柳陰に立ち寄ることができた。

  田一枚(うえ)立去(たちさる)(かな)

(西行はしばし立ち止まったというが、私は田圃一枚に苗を植え終わるのを見届けて、ゆっくり立ち去りますよ柳陰を)

 

頼りない思いで旅の日々を重ねてきたが〈白河の関(福島県白河市)〉にやって来て旅への心持ちが定まった。(平兼盛(たいらのかねもり)が)「便りあらばいかで都へ告げやらん今日白河の関は越えぬと」と、伝えたく思ったのも(もっと)もだ。特にこの白河の関は東国三関の一つとして、風雅を好む人は心に留めている。(能因(のういん)法師の「都をば霞とともに立ちしかど秋風ぞ吹く白河の関」で)秋風の音を耳にし(平親宗(たいらのちかむね)の「もみじ葉の皆くれないに散しけば名のみ成けり白河の関」で)紅葉を想い浮かべると、目の前の青葉の(こずえ)も一層趣き深いことだ。(藤原季通(ふじわらのすえみち)の「見て過ぐる人しなければ卯の花の咲ける垣根や白河の関」の)卯の花の白さに、野茨(のいばら)の花も咲き添って(久我通光(こがみちてる)の「白河の関の秋とは聞きしかど初雪分くる山の辺の道」の)雪道を越えて行く思いがする。「昔の人は(この関を越えるのに、能因の歌を敬って)冠を正し衣服を改めた」などと、藤原清輔(ふじわらのきよすけ)も書き置かれたそうだ。

  うの花をかざしに関のはれ着哉 曽良

(改めるほどの衣装も無いけれど、せめて白い卯の花を(かんざし)に挿して、この白河の関を越える晴れ着としよう)

 

こうして白河の関を越えて行くほどに、阿武隈川(あぶくまがわ)を渡る。左手に会津磐梯山(ばんだいさん)が高く(そび)え、右手には岩城(いわき)相馬(そうま)三春(みはる)などの(さと)が広がり、背後には常陸(ひたち)(茨城県)や下野(栃木県)との境に山々が連なる。影沼(かげぬま)という所を通り過ぎると、今日は空が曇って何の物影(ものかげ)も映らなかった。

須賀川(すかがわ)の宿場(須賀川市)等窮(とうきゅう)(等躬)という者を訪ねると、四・五日引き留められた。先ずは等窮が「白河の関はどんな印象でしたか」と尋ねるので「長旅に苦しみ身心疲れているところに、見事な風景に心を奪われ、昔の人が詠んだ古歌(こか)の情趣が一段と身にしみて、十分に想いを巡らせませんでした。

  風流のはじめやおくの田植うた

(これこそ庶民の風流の原点だ。この陸奥国(むつのくに)に入って初めて耳にした、田植え歌の(ひな)びた味わいよ)

何も無しに関を越えるのもさすがにどうかと」と言い訳すると、これを発句(ほっく)脇句(わきく)・第三句と続けてくれて、三巻の連句(れんく)を成した。

この宿の傍らに、大きな栗の木の下に身を寄せて、俗世を避けて暮らす僧侶がいる。「(西行が)『山深み岩に下垂(したた)る水溜めんかつがつ落つる(とち)拾う程』という深山(みやま)もこんなだろうか」と静寂さに感じ入って、手許(てもと)に書き付けた言葉は

    「『栗』の字は『西』の『木』と書くので、西方浄土に縁があるとして、行基(ぎょうき)菩薩は生涯で杖にも柱にも栗の木を用いられた」という

  世の人の見付ぬ花や軒の栗

(世間の人が目に留めない栗の花みたいな(ゆか)しさだ。栗の木陰の軒下で静かに西方浄土への縁を願うあなたは)

 

【須賀川】の場面。葉の茂った大きな栗の木を表し、右手へ伸ばした枝の下に茅屋(ぼうおく)を描いて、家内に墨衣の人物を配する。本来家屋の周囲を取り囲むはずの間垣(まがき)の外に庵が出張っていて、中に居る人はまるで見世棚(みせだな)の店主のようだ。芭蕉がこの人の静かな暮らしぶりを「世の人の見付ぬ花」と注視した意を、蕪村も解って活かそうとした。景観よりも人事に主眼を置いて、その人の姿を明瞭に表すことにしたのである。

 

等窮の家を()って五里(二十キロ)ぐらい、桧皮(ひわだ)の宿場(福島県郡山市)より少し離れた所に〈安積山(あさかやま)〉がある。街道からほど近い。この付近には沼が多い。(藤原実方(ふじわらのさねかた)が端午の節句で菖蒲の代わりにしたという)「花かつみ」を刈る頃もそろそろ近いかと「どの草のことを『花かつみ』というのですか」と人々に尋ねてみたが、全く知る人がいない。安積沼を訪れ、地元の人に聞いて「かつみ、かつみ」と尋ね歩いたが、日が山に沈み始めてしまった。二本松(にほんまつ)(二本松市)から街道を右手に折れて(謡曲『安達原(あだちがはら)』の鬼婆が住んだという)黒塚(くろづか)の岩屋を一見し、福島(ふくしま)(福島市)で宿を取る。

明くる日は源融(みなもとのとおる)の「陸奥(みちのく)のしのぶもぢずり誰ゆえに乱れんと思ふ我ならなくに」で知られる)信夫捩󠄁摺(しのぶもじずり)の石を訪ねようと〈信夫〉の里(福島市)に行く。かなり離れた山間(やまあい)の里に、捩󠄁摺石は半ば土に埋もれてあった。村の子どもたちがやって来て教えてくれて「以前はこの山の上にあったんだけど、行き来する人たちが麦畑を踏み荒らしてこの石で摺りを試されるのが嫌で、この谷に突き落としたら、石の表側が下向きに倒れてしまったんだ」という。確かにありそうなことだ。

  早苗とる手もとや昔しのぶ摺

(早乙女たちが早苗を手に取る昔ながらの仕種に、かつての信夫捩摺の布染めの手つきが偲ばれるようだ)

 

月の輪の渡し(福島市)を越えて、()(うえ)という宿場(瀬上町)に出た。(源義経(みなもとのよしつね)の家臣、佐藤継信(つぐのぶ)忠信(ただのぶ)兄弟の父で)この地の荘官だった佐藤元治(もとはる)の旧居跡は、左手の山間へ一里半(六キロ)ほどにある、飯塚(いいづか)の里、鯖野(さばの)という所と聞いて、尋ねながら行くと、丸山(まるやま)という地に尋ね当たった。「ここが荘官の館跡です。麓にも大手門の跡があります」などと土地の人が教えてくれるそばから涙を流し、また近くの古寺(福島市、医王寺)には佐藤一族の墓碑が遺る。取り分け(戦死した継信・忠信の甲冑武具を着て、兄弟の母を慰めたという)二人の嫁の像が一番哀れである。「女性ながら健気な行いで、名を後世に遺したものだなあ」と袂で涙を拭った。(故人の徳を慕う)「堕涙(だるい)の石碑」は、遠く中国にあるばかりではない。寺に上がって茶をいただくと、ここには源義経の太刀と弁慶(べんけい)(おい)とが遺され宝物とされる。

  笈も太刀も皐月(さつき)にかざれ帋幟(かみのぼり)

(弁慶の笈も義経の太刀も、端午の節句に飾る紙幟とともに披露して、武勇の誉れを示すがよい)

 

【飯塚の里】の場面。芭蕉がいう「二人の嫁がしるし」として描かれるのは、実は宮城県白石市の甲冑堂に祀られた二像である。兄弟の妻二人が、亡き夫の甲冑を各々身に着け、兄弟の母を慰めた姿。海の見える杜美術館所蔵の「奥の細道画巻」では、同図に「各鎧を着し一人は(つるぎ)(あん)じ一人は弓箭(きゅうせん)を取る」と注記され、蕪村は木像の姿を知っていたと判る。本図で二人の鎧は緋縅(ひおどし)黒糸威(くろいとおどし)とに着分けられ、持つ物も剣と長刀(なぎなた)とになる。

 

当に五月一日のことだった。

 

その夜は飯塚(福島市飯坂温泉)に泊まる。温泉があるので湯に入ってから宿を借りると、土間に(むしろ)を敷いた侘びしい粗末な家だった。灯火も無いので、囲炉裏(いろり)の火の近くに寝床を作って横になった。夜中になると、雷が鳴り雨も(ひど)く降って、寝ている上から雨漏りし、(のみ)や蚊に刺されて眠れず、持病さえ起こって人心地を無くすようだった。夏の短夜(みじかよ)で空もやがて明けたので、また旅立った。

けれども昨夜の重苦しさのまま、気分が優れない。馬を借りて桑折(こおり)の宿場(桑折町)に出た。「これから長い道程(みちのり)があるのに、こんな病に煩わされては心配だ」と思ったが「辺境を旅行くからにはこの身は捨てたと覚悟し、道中に命を落としたとしても天の命ずるところだ」と、気力を多少は持ち直し、思いのままに道を踏みしめて、伊達藩の大城戸(おおきど)(国見町)を越えた。

 

鐙摺(あぶみずり)の細道や白石(しろいし)の城下(宮城県白石市)を過ぎて、笠島(かさしま)の郡(名取市)に入ったので「藤原実方の墓はどの辺りでしょう」と土地の人に尋ねると「ここから遠く右手に見える山間の里を箕輪(みのわ)・笠島といいます。そこに実方所縁の道祖神の神社や、西行が詠んだ形見の(すすき)などが今もあります」と教えてくれた。数日の五月雨で道がとても悪く、身体も疲れていたので、遠くから眺めるだけで通り過ぎたが、簑輪も笠島も五月雨に(ゆかり)がある地名と思い

  かさしまはいずこさつきのぬかり道

(藤原実方所縁の笠島はどんなところだったのだろう。五月雨に泥濘(ぬかる)んだ道のせいで訪れることが叶わなかったよ)

岩沼(いわぬま)(岩沼市)に宿を取る。

 

武隈(たけくま)の松(二木の松)〉には本当に目が覚める思いがした。幹が根元から二股に分かれて、昔の人が歌に詠んだ姿を失っていないと知った。直ぐに能因の逸話を想い起こした。その昔、陸奥守(むつのかみ)として下った方が、この木を()って名取川(なとりがわ)橋杭(はしぐい)にされたことなどがあったからか、能因は「武隈の松はこのたび跡も無し千歳を経てや我は来つらん」と詠んだ。その時々に、ある者は伐り、ある者は植え継ぐなどしたとは聞くが、今また千年前から続く形を整えて、何と目出度(めでた)い松の姿であることだ。

  たけくまの松見せ申せ遅ざくら

(武隈の松を見せて差し上げてくれ、陸奥の遅桜よ。まだ咲いていたなら、その花とともに愛でられよう)

の句を(草壁)挙白(きょはく)という門人が䬻別にくれたので

  さくらより松は二木(ふたき)三月越(みつきごし)

(桜の弥生に旅立ってより待ち望んでいた、二木の松の姿を、三ヶ月を越えて遂に見ることが叶ったよ)

 

名取川を渡って仙台(仙台市)に入る。家々で軒に菖蒲を()く五月四日(端午節句前日)だ。宿屋を定めて四五日滞在した。この地に絵描きの加右衛門という人がいる。なかなか風雅を愛する人物と耳にして、知り合いになった。この人が「日頃から、定かでない歌枕の場所を調べてありますので」といって、ある一日案内してくれた。〈宮城野(みやぎの)〉は萩が茂り合って、秋の景色が想い浮かべられる。〈玉田(たまだ)横野(よこの)榴ヶ岡(つつじがおか)〉は(源俊頼(みなもとのとしより)が「とりつなげ玉田横野の放れ駒つつじが岡にあせみ咲くなり」と詠んだ)馬酔木(あせび)の咲く頃だった。木漏れ日も差さない松林に入ると「ここが〈木の下〉という所です」という。昔もこのように露深かったので、古歌でも「みさぶらい御笠(みかさ)と申せ宮城野の木の下露は雨にまされり」と(笠を勧めるよう)詠んだのだろう。薬師堂や天神の御社(榴岡天満宮)などを参拝して、その日は暮れた。

その後もなお加右衛門は、松島や塩竃(しおがま)の所々を絵に描いて贈ってくれた。そして、紺染めの鼻緒を付けた草鞋(わらじ)二足を餞別にくれた。なるほどこの通り、風流の達人は、別れに至ってこそその実を現すものだ。

  あやめ(ぐさ)足に(むすば)ん草鞋の緒

(まるで菖蒲の花を足に結わえ付けたようだ。餞別の草鞋の紺色の鼻緒に元気をもらって、これからの旅も安心だ)

 

加右衛門の絵図を頼りに進んで行くと、奥の細道の山際(利府町(りふちょう))に(藤原仲実(ふじわらのなかざね)の「みちのくの十符(とふ)菅薦(すがこも)七符には君を寝させて三符に我が寝む」で知られる)「十符」の菅があった。今も毎年「十符の菅薦」を作って藩主に献上するそうだ。

  壺碑(つぼのいしぶみ)多賀城碑(たがじょうひ) 市川村多賀城(多賀城市)にある。

壺の碑は、高さは六尺余(約一八〇センチ)横幅は三尺(九〇センチ)ぐらいか。覆われた苔を彫り込んだかのように、文字は不鮮明だ。ここから四方の国境(くにざかい)までの距離を記している。「この城(多賀城)は、神亀(じんき)元年(七二四)按察使(あぜち)鎮守府(ちんじゅふ)将軍の大野東人(おおののあずまびと)が築いた所である。天平宝字(てんぴょうほうじ)六年(七六二)参議(さんぎ)で東海・東山道節度使(せつどし)で同じく将軍の恵美(えみ)(藤原)朝獦(あさかり)が修理をした。十二月一日」と見える。神亀元年は聖武天皇が即位された年に当たる。

古より詠み継いだ歌枕が数多く語り伝えられるというが、山は崩れ川は流れを変え道は新たになり、石は地に埋もれて土に隠れ、木は枯れて若木に替えられるなど、時は移り世は変わってその有り様が確かでないものばかりだが、この地に至って疑い無く千年変わらぬ姿に、当に目の前に古人の心を見た思いだ。これこそ巡歴で得られた恩恵、生きている者の悦びで、旅の苦労も忘れて涙が溢れるばかりである。

 

【多賀城碑】

     石は高さが六尺五分、幅が三尺四寸

 

  多賀城は (みやこ)を去ること千五百里

       蝦夷(えみし)国との境を去ること一二〇里

       常陸国との境を去ること四一二里

       下野国との境を去ること二七四里

       靺鞨(まっかつ)国との境を去ること三千里

西 この城(多賀城)は神亀元年(甲子)按察使で鎭守将

  軍を兼ねる従四位上勳四等の大野東人が築いた。

  天平宝字六年(壬寅)参議・東海東山節度使であり、

  従四位上の仁部省(じんぶしょう)卿で按察使・鎮守

  将軍を兼ねる恵美朝獦が修理した。

     天平宝字六年十二月一日

 

『日本総国風土記』に曰く「陸奥国宮城郡の坪碑(つぼのいしぶみ)は鴻之池にある。旧鎮守府の門碑のために、恵美朝獦がこれを建て、見雲真人(みくものまひと)が清書した。異域から本邦への行程を記し、旅人が道に迷わないようにした」

  陸奥のいはでしのぶはえぞ知らぬ書きつくしてよ壺の碑 右大将 源頼朝(みなもとのよりとも)

  陸奥は奥ゆかしくぞ思ほゆる壺の碑外の浜風  西行

 多賀城の事は『続日本記』の聖武皇帝天平九年夏四月の記事に初めて見える

 神亀元年(甲子)は聖武帝の元年で安永(あんえい)八年巳亥(つちのとい)までは一〇七五年

 天平宝字六年(壬寅)は廃帝(はいてい)淳仁(じゅんにん)天皇)の四年で安永八年巳亥まで一〇三七年

 

それから、歌枕に知られる〈野田(のだ)玉川(たまがわ)〉や(おき)(いし)〉を訪ねた。〈(すえ)松山(まつやま)〉には寺が造られて「末松山(まつしょうざん)」と称す。松林の合間は皆墓地となり「羽根を交わし枝を連ねる(比翼連理(ひよくれんり))と誓った仲でも、果てにはこの無常な有り様か」と悲しみに(ふけ)り〈塩竃の(うら)〉に出て夕暮れの鐘の音に耳を傾けた。梅雨空が少しだけ晴れ、夕月の光が柔らかく照らして〈(まがき)(しま)〉も間近く見える。漁師の小舟が次々に帰り来て、魚を分け合う声を聞くと「陸奥はいづくはあれど塩竈の浦()ぐ舟の綱手(つなで)かなしも」と詠んだ古人の心が想われて、何とも哀れである。

その夜、盲目の法師が琵琶を弾きながら奥浄瑠璃(おくじょうるり)」というものを語る。平家琵琶でも幸若舞(こうわかまい)でもない。鄙びた調子で声を張り上げて、寝ている枕近くに聞こえて(やかま)しかったが、確かに辺境でも昔ながらの風俗を守っていることを感心に思った。

 

朝早く、塩竃の明神(塩竈市、鹽竈神社)に詣でる。藩主(伊達家代々)が再興されて、社殿は柱も立派で彩られた垂木(たるき)は華やかに、石段が高くまで続いて、朝陽が(あけ)玉垣(たまがき)を輝かしている。このように遠く離れた辺地にまで、神々が霊験(あらた)かに(ましま)すことこそ、我が国の美風であり、とても貴いことだ。神殿の前に古い宝灯がある。金属の扉の表に「文治(ぶんじ)三年(一一八七)和泉三郎(いずみさぶろう)藤原忠衡(ふじわらのただひら))が寄進した」とある。五百年前のその人の姿が今目の前に浮かんで、思わず感激した。彼は勇気・正義、忠孝・礼節を備えた武士だった。その名は今に伝わり、慕わない者はいない。当に「人は正しく道を勤め、義を守るのがよい。名声もまた(おの)ずとその行いに伴う」という通り。

 

時刻はもう正午に近い。船を借りて松島に渡る。その間の距離は

 

【塩竃】にて琵琶法師が「奧浄瑠璃」を語る場面。右方で琵琶を弾きつつ演じる法師は、調子が出て来たのか前方に身を乗り出し、大きく開いた口から音声(おんじょう)を発する。左方には宿の相客か、男女三人を聴衆とする。目を閉じて微笑みながら聴き入る婦人に対し、頬に手を当てる口ひげの老人は、顔を(しか)めてむしろ不興そうな様子。芭蕉の「枕ちかうかしましけれど」という直截(ちょくせつ)な表現に応じ、蕪村が表した人物像か。

 

二里(八キロ)ほど、雄島(おじま)の磯に着いた。

さて既に言い古されたことだが、松島は日本第一の景勝地であって、全く中国の洞庭湖(どうていこ)西湖(せいこ)にも劣らない。東南から海が入り込んで、入り江の長さは三里(十二キロ)、中国の銭塘江(せんとうこう)のように潮が満ちる。様々な島を集め尽くして、聳え立つものは天を指差し、伏すものは海面に腹這(はらば)う。あるものは二重に重なり、三重に(たた)まれて、背負うものあり、抱きかかえるものあり、子や孫を(いと)おしむかの如くだ。松の緑は色濃く、枝葉は潮風に吹き(たわ)められて、曲がり具合は自然と形を整えたようだ。その雰囲気はうっとりとするようで(蘇東坡(そとうば)が西湖と美女の西施(せいし)とを比べたように)美人が顔を化粧する様だ。千早振(ちはやぶ)神代(かみよ)の昔に、大山祇(おおやまずみ)の神が為した業なのだ。天地の創造者の仕事に対し、誰が文筆を振るい、言葉を尽くせるというのか。

雄島の磯は陸からの地続きで、海に突き出た島だ。(瑞巌寺(ずいがんじ)を中興した)雲居(うんご)希膺(きよう))禅師の禅堂跡や座禅石などがある。また、松の木陰に浮き世を離れて住む人も(まれ)に居られて、落葉や松笠などを焚いて煙を上げる草庵で長閑(のどか)に暮らし、どのような人物かは知らないまま、何より心()かれて立ち寄っていると、月が海に映って、昼の眺めとはまた趣きがあらたまった。

入り江近くに帰って宿を探すと、ある家で窓を開け広げた二階に寝床を作ってくれた。風や雲の中に旅寝しているようで、不思議と神妙な気分になった。

  松しまや鶴に身をかれほとゝぎす 曽良

(絶景の松島なのだから、優雅な鶴の姿を借りて鳴き渡ったらどうかね、ホトトギスよ)

私は言葉が出ないまま、眠ろうとしても眠れない。深川の草庵で別れた際、友人の(山口)素堂(そどう)は「松島の詩」を持ち、原安適(はらあんてき)は「松かうらしま」の和歌を贈ってくれた。荷物袋を開いて、今宵の楽しみの(よすが)とする。また、門弟の杉風や(中川)濁子(じょくし)の発句もある。

五月十一日、瑞岩寺(松島町、瑞巌寺)に詣でる。この寺は昔、三十二世となる真壁平四郎(まかべのへいしろう)法身性西(ほっしんしょうさい))が出家して唐(※宋)に留学し、帰朝した後に開山した。その後、雲居禅師の教えが慕われて、七堂伽藍も改築され、金箔(きんぱく)の壁が荘厳に光り輝く、仏の世界さながらの大寺院となったのだ。「彼の見仏(けんぶつ)上人の寺は何処なのだろう」と偲ばれる。

 

五月十二日、平泉を目指し、歌枕の〈姉歯(あねは)(まつ)〉や〈緒絶(おだえ)(はし)(大崎市)〉などがあると伝え聞いて、人通りも稀な、(きじ)(うさぎ)や狩人・樵夫(きこり)が通うような道を、どこであるかもよく分からないまま、(つい)に道を間違えて石巻(石巻市)という港に出た。(大友家持(おおとものやかもち)が)「天皇(すめろき)御代(みよ)栄えんと(あづま)なる陸奥山(みちのくやま)(くがね)花咲く」と詠んで(たた)えた金華山(きんかざん)を海上に見渡し、数百隻の廻船(かいせん)が入り江に集まり、家々は軒を連ね、炊事する(かまど)の煙がたくさん立ち上っている。「思い掛けずこのような所に来てしまったなあ」と、宿を借りようとするが、一向に宿を貸す人がいない。漸く粗末な小家(こいえ)に一夜を明かして、翌朝また知らない道を迷い行く。〈(そで)(わた)り〉〈尾駮(おぶち)(まき)〉〈真野(まの)萱原(かやはら)〉など、歌枕の地も見ずに過ぎ、北上川の長い土手を行く。心細い思いで長沼(ながぬま)に沿って、戸伊摩(といま)(登米市)という所に一泊して、平泉(岩手県平泉町)に到着した。その間の距離は二十余里(八十キロ)ぐらいと思えた。

 

奥州藤原氏三代の栄華も、邯鄲一炊(かんたんいっすい)の夢の内の出来事のように消え去り、南大門の跡は一里(四キロ)ほど手前にある。秀衡(ひでひら)の館跡(伽羅御所(きゃらのごしょ))は田や野原となって、金雞山(きんけいざん)だけが往時の姿を(とど)める。

先ず、義経が陣取った高館(たかだち)衣川館(ころもがわのたて))に登ると、北上川は南部地方から流れてくる大河だ。衣川は、和泉三郎の城(泉ケ城)を巡って、高館の下で北上川に流れ入る。泰衡(やすひら)たちの居館跡(きょかんあと)柳之御所(やなぎのごしょ)遺跡)は、衣が関(衣河関(ころもがわのせき))を隔てとして、南部からの入口を守り固め、蝦夷を防いだと見られる。

将に忠義な臣下たちを選んでこの高館に立て籠もり、功名を成したがそれも一時のこと、今は草むらとなっている。(杜甫がいう)「(くに)破れて山河(さんが)あり、(しろ)春にして草木(そうもく)深し」の通りだと、旅笠を敷いて腰を下ろし、時が過ぎるのを忘れて悲しみに暮れたのだ。

  夏艸(なつくさ)(つわもの)どもが夢のあと

(今は夏草が生い茂るばかりだが、かつては藤原三代や義経・弁慶たち、兵共が各々夢を想い描いた地だったものを)

  うの花に兼房(かねふさ)みゆる白毛(しらが)かな 曽良

(卯の花の白さに、義経の最期に奮戦した十郎権頭(じゅうろうごんのかみ)兼房の姿が偲ばれるのは、その白髪頭の所為(せい)だろうか)

以前より伝え聞いて感心していた(中尊寺の金色堂・経蔵(きょうぞう))二堂の扉を開けてくれた。経堂(経蔵)には藤原氏三代の像(※文殊五尊像)を遺し、光堂(ひかりどう)(金色堂)には三代の(ひつぎ)を納め、阿弥陀三尊の仏像を安置する。宝飾は散り失せ、美麗な扉は風で傷み、金色の柱は風雪に朽ちて、既に廃墟の草むらと成るべきを、堂の四面を新たに囲み瓦屋根で覆って雨風を防ぎ、当面は千年の姿を留める記念物となった。

  さみだれのふりのこしてや光堂

(毎年毎年五月雨は降るというのに、ここだけは尊んで除けて残してくれたのか、見事に光り輝いている金色堂だ)

 

【平泉】で描くのは「笠打敷て時のうつるまで泪を落し侍りぬ」の場面。芭蕉の文が高館からの眺望を雄大に表すのに対し、蕪村はそうした風景を一切描かない。芭蕉と曽良とが坐り込む姿は、単に道中で一休みしているかのよう。しかし蕪村は周囲の景観を全て省き去ることで、悲しみに暮れる芭蕉の心情にクローズアップしているのだ。芭蕉は目を細め口を閉ざし、傾けた体を杖に寄せる。曽良は片手で目頭を押さえている。この感極まった場面で上巻を終える。

 

 

【あ】

あやめ(ぐさ)足に(むすば)ん草鞋の緒

あらとうと青葉若葉の日の光

うの花に兼房(かねふさ)みゆる白毛(しらが)かな 曽良

うの花をかざしに関のはれ着哉 曽良

笈も太刀も皐月(さつき)にかざれ帋幟(かみのぼり)

【か】

かさしまはいずこさつきのぬかり道

かさねとは八重(やえ)なでしこの名なるべし 曽良

草の戸も(すみ)替る()(ひな)の家

木つつきも庵はやぶらず夏木立

【さ】

さくらより松は二木(ふたき)三月越(みつきごし)

早苗とる手もとや昔しのぶ摺

さみだれのふりのこしてや光堂

しばらくは滝にこもるや()(はじめ)

(そり)すててくろかみ山に更衣(ころもがえ)曽良

【た】

田一枚(うえ)立去(たちさる)(かな)

たけくまの松見せ申せ遅ざくら

【な】

夏艸(なつくさ)(つわもの)どもが夢のあと

夏山に足駄(あしだ)を拝む首途(かどで)かな

野を横に馬ひきむけよほととぎす

【は】

風流のはじめやおくの田植うた

【ま】

松しまや鶴に身をかれほとゝぎす 曽良

【や】

(ゆく)春や鳥(なき)魚の目は(なみだ)

世の人の見付ぬ花や軒の栗